認知症診療あれこれ見聞録 ~エンヤーコラサッ 知の泉を旅して~

日々認知症診療に携わる病院スタッフのブログです。診療の中で学んだ認知症の診断、治療、ケアについて紹介していきます。

まなざしによるケア(3)

前回は、認知症の人にとって、相手が「自分の目を見てくれないこと」は大きなストレスになるため、「目を見ない」応対は認知症の病状を悪化させたり、進行させかねないというお話をしました。

さらに「メラビアンの法則」によれば、コミュニケーションにおいて、話すしぐさや表情、視線といった「見た目」が相手の印象を決定する割合は55%もあり、言葉の理解力や記憶力の低下があって視覚情報に頼らざるを得ない認知症の人だったら、その割合はそれ以上になるのではないかということ、そして「見た目」を大きく左右するのが「顔の表情」とりわけ「目の表情」になるため、認知症ケアにおいてはやはり「相手の目を見る」ことが不可欠になるということもお話ししました。

今回はその続きになります。

 

フリードリヒ2世の実験

1740年から第3代プロイセン国王となり、優れた軍事的才能と合理的な国家経営でプロイセンの強大化に努めたフリードリヒ2世という人がいました。

ある時、フリードリヒ2世は「もし赤ん坊が言葉を一切教わらなかったら、いったいどんな言葉を話すようになるのだろうか?」という疑問を持ったそうです。

当時のヨーロッパでは捨て子が多く、そんな子供たちを修道院に入れて修道士が育てることが多かったそうですが、フリードリヒ2世は自分の疑問を確かめるべく、そんな捨て子の赤ちゃんを50人集めて隔離し、一定の条件のもとで修道士の乳母に育てさせました。

その条件とは、赤ちゃんに対いて「目を見てはいけない」「笑いかけてはいけない」「話しかけてはいけない」「その他の世話はしっかりする」というものでした。

今ではとても実施できないような非人道的な人体実験ですが、その結果はとても悲惨なものになりました。

何と50人の赤ちゃんのうち49人までもが1歳前に亡くなり、残りの1人も6歳で亡くなったというのです。

しかしながら、この実験結果は私たちに非常に大切なこと示唆しているように思います。

人から目を見つめてもらったり、話しかけられたり、笑いかけられたりすることが、言葉の分からない赤ちゃんにとっても、生きていくうえでは「なくてはならないこと」であり、もしそうしてもらわなければ死んでしまうということが分かったからです。

「人はパンのみにて生きるにあらず」というキリストの言葉もありますが、人は決して物質的なものだけで生きられるわけではないのです。

人は歳をとるにつれて、だんだん子供返りしていくと昔から言われます。

特に認知症の人は、言葉の理解力や記憶力の低下とともに、物事の分別をつけたり、理性的に行動することが難しくなったりしてきますが、そうなると本当に子供っぽくなっていきます。

フリードリヒ2世の実験から分かったのは、赤ちゃんにとって、他の人からのまなざしや声掛け、微笑みが、いわば「生きる糧」になっていたということです。

そうであるならば、子供返りしているような認知症の人にとっても、他の人からのまなざしが、赤ちゃんと同じくらい「生きる糧」になっているのではないかと思うのです。

いずれにしても相手の「目を見ない」ということは、時には人に死をもたらすほどの大きなストレスになるということです。

 

温かいまなざしが人を生かす糧になる

フリードリヒ2世の実験から分かったことの1つは、「まなざしが人を生かす糧になる」ということだと思います。

人間は本来、感情がとても豊かであり、お互いにその感情をやりとりしながら生きています。

そして人と人がやりとりしている感情は、「目」という「心の窓」からも相手に伝わります。

「あなたに生きてほしい」「あなたのことが大事ですよ」という気持ちが「目」から伝わり、それが相手に「生きる喜び」や「生きる意欲」を与えるということです。

そうすると、認知症の人に限らず、誰かと接する時に「相手の目を見ない」ということは、「生きる糧」を相手に与えたり、こちらがもらう機会を放棄することになります。

そのため、私たちは本能的にそのことを感じとり、「相手の目を見ない」ことを忌み嫌うのだと思います。

突き詰めていえば、「相手の目を見ない」ということは、自分の生存をも脅かす行為になり得るということです。

また、認知症の人の心は、世話をしている人の心を映す鏡でもあります。

ついつい忙しかったり、心に余裕がなかったりすると、相手の目を見なかったり、目つきが険しくなったりします。

するとそんな気持ちが伝わって、相手の心も窮屈になり、不安や怒りといった気持ちが生まれやすくなってしまいます。

するとその嫌な気持ちが自分に返ってきて、それがまた相手に伝わって・・・というような悪循環が起こってしまいます。

では逆に、温かいまなざしを相手に向けたらどうなるでしょうか。

きっと相手は「嬉しくて安心して穏やか」な気持ちになり、それが自分にも返ってきて、きっと「温かい」気持ちで満たされるのではないでしょうか。

温かいまなざしで見つめているのは相手であると同時に、自分自身でもあるということです。

そして温かい気持ちが相手を介して、自分をも満たしてくれるのです。

 

温かいまなざしが人を癒す

人が本当につらい時や苦しい時は、一人でいてもろくなことがありません。

そんな時は、無理をしてでも頑張って仕事に行ったりして、日常の忙しさに追われたり、他の人と何気ない会話をしたりすることで、自然に心が癒されたりします。

私は自分がつらい時や苦しい時ほど、相手の気持ちが分かったり、優しい気持ちになれたりするのですが、皆さんはいかがでしょうか。

私の場合、自分が弱っている時ほど、患者さんが心を癒してくれるのを感じます。

そんな時は、いつもより患者さんに優しい気持ちで寄り添うことができるようになり、さらにそのことで自分が癒されていくのです。

私は人をどれだけ助けることができるかということが、その人の価値を高めることになり、それが生きがいにもつながると思っています。

そして実は、誰もが本能的にそのことを感じているのではないかとも思っています。

そのため、自分がつらい時ほど相手に優しい気持ちを持てるようになったり、さらに不安で困っている相手を助けようとすることで自分が満たされて、心が癒されたりするのではないでしょうか。

衣食住が十分に満たされていたとしても、人は一人では生きていけないのです。

自分に向けられた誰かの温かな気持ちで生かされているのであり、自分の心を映す相手の心があってこそ、人は人らしく生きられるのではないかと思うからです。

そうであるならば、優しさや温かい気持ちがにじみ出るまなざしには、人を癒す大きな力があると思うのです。

 

最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。

 

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