認知症診療あれこれ見聞録 ~エンヤーコラサッ 知の泉を旅して~

日々認知症診療に携わる病院スタッフのブログです。診療の中で学んだ認知症の診断、治療、ケアについて紹介していきます。

発達障害ともの忘れ(18)

前回は、「発達障害の気質」は誰もが持ち合わせているもので「個性」でもあるということ、さらには「発達障害」や「認知症」の診断は本人の状態だけに依拠してなされるわけではなく、社会活動や日常生活に何らかの支障があってはじめて「診断」されるため、家族などの周りにいる人たちや社会・文化の許容性や対応力によって診断の可否が左右される病態・気質でもあるということをお話ししました。

今回はその続きになります。

 

認知症」や「発達障害」は、ある意味「社会の病気」でもある

今回は少し話が脱線します。

家族などの周りにいる人たちや社会・文化の許容性や対応力によって診断の可否が左右されるのは「認知症」も「発達障害」も同じなのですが、このことに考えが及ぶ時、いつも思い出される話があります。

それは、渥美清さんが寅さんを演ずる「男はつらいよ」の映画を観たあるインド人が「これの何が面白いの?」と言っていたことです。

というのも、インドでは寅さんみたいな人ばかりだし、むしろもっとハチャメチャな人がたくさんいるから何が面白いのか分からないということでした。

確かに、寅さんの周りにいる登場人物はみんな真面目でいわゆる常識的な人たちばかりだから話が面白くなるのでしょうし、私たちの周りにも寅さんみたいな人がいないから面白く感じるのでしょう。

そうでなければ、ただのありふれた話になってしまい面白くも何ともなくなってしまいます。

物事や人の評価というのは、あくまで周りにいる人たちの多くに共通する考えだったり、社会通念や常識といったものが基準となって決まっていくものであり、その点では「認知症」や「発達障害」の診断もまったく同じなのです。

つまり「認知症」や「発達障害」の診断というのは、その人が暮らす社会の状態に依拠してなされるため、当然ながらその時々の社会通念や常識によって「認知症」や「発達障害」の診断基準も変化していくのです。

そうであるならば、「認知症」や「発達障害」というのは、ある意味「社会の病気」であるとも言えるかもしれません。

 

発達障害の気質」が強い人が問題なく過ごせるかどうかは周りの人たち次第

このように、その人が暮らす社会の状態が「認知症」や「発達障害」の診断にも影響するのですが、最近の社会風潮について個人的に感じていることがあります。

それは、今回のコロナ騒ぎが始まる前から他人の失言や失敗を許容できなかったり、いわゆる「枠」からはみ出たような人は受け入れられないといった風潮が強まってきているのではないかということです。

このような風潮を反映してか、最近は何ごとも事前に細かいところまでルールが決められたりしており、それでマニュアルばかりが増えてしまって個人的には少々うんざりする気持ちもありますが、そこから少しでもはみ出たものについては「こちらの責任ではなくあなたの責任ですよ」といった具合にです。

そのため分かりきった些細なことであっても、その場その場の判断に委ねて柔軟な対応をするといったことが許されずに、至る所でいわゆる「お役所仕事」的な対応をされることが多くなりましたし、最近よく聞かれる「コンプライアンスが…」などというのもこの風潮を反映したものではないでしょうか。

また、社会の「枠」からはみ出たような個性的な人や社会通念から外れたような考え方だったりするとなかなか受け入れられなかったり、もしくは、少しでも自分とは違った意見や考え方だったりするとそれらを許容できないといったような人が増えてきた気もします。

さらにいえば、最近表向きには「個人の生き方や考え方の多様性を認めなさい!」という声が大きくなっていますが、そのことがかえって「普通ではない異質なもの」とわざわざ「区別」させることを助長させかねませんし、あえてそのような「レッテル張り」でもしなければ、同じ社会で安心して「同居」することさえできないといった人が増えてきたのかもしれません。

かつての日本人には気持ちにもっと大らかさがあり、時間の流れもゆったりしていて、季節の移ろいや情緒を楽しめる余裕があったようにも思いますが、それが生活様式の変化に伴って、だんだんと時間に追われるようになっていき、それで私たちの心にゆとりがなくなってきたのかもしれません。

私自身も「色々な人や考え方があって当たり前だ」という風に普段からもっと大らかに構えて、それぞれの違いを楽しむ気持ちがあってもいいとは思うのですが、確かになかなか思うようにはいかないものです。

いずれにせよ、昔に比べて社会がだんだん窮屈になっていくにつれ、ますます社会の多様性が失われるとともに、その画一化が進んでいるような気がしてなりません。

特に電車に乗った時になど、子供も大人も一様にスマホに熱中している姿を見たりすると、どうしてもその感が強まってしまいます。

個人的には、そんな窮屈で画一的な社会こそ「未熟」であり、「発達障害」に陥っているのではないかとも思ってしまいますが、当然ながらそのような社会になればなるほど「枠」からはみ出て「発達障害」と診断される人は増えていくでしょうし、「発達障害の気質」を持つ個性的な人ほどますます生きづらくなっていくのでしょう。

つまり、社会の在り方や私たちの心持ち次第で、「発達障害の気質」が強い人の生き方は大きく変わっていくのです。

発達障害の気質」を強く持った人であっても、「他人に迷惑をかけることはしない」という最低限のルールには従えるという条件付きではありますが、周りにいる人たちに他人の失敗や個性的な言動をある程度許容しながら、それらを笑顔で見守っていく気持ちがありさえすれば、きっと本人は大きな問題もなく過ごすことができるでしょうし、そもそも「発達障害」の診断を受けるまでにも至らないのかもしれません。

そればかりか周りにいる人たちの心持ち次第で、「発達障害の気質」を強く持つ人ほど有していやすい突出した能力をさらに伸ばし、その得意な能力を活かして逆に社会に貢献してもらえるかもしれないという可能性すら大いに秘めていると言えるのです。

 

次回に続きます。

最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。

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