前回まで3回に渡り、発達障害の気質が強い人で「もの忘れ」を訴えて受診されてきた3症例についてご紹介いたしました。
今回はその続きになります。
「発達障害の気質」は誰もが持ち合わせているもので「個性」でもある
これまで「発達障害ともの忘れ」についてお話ししてきましたが、ここで是非お伝えしておきたいことがあります。
それは「発達障害の気質」というのは、決して特定の人だけに見られるものではなく、特性の種類やその強弱の差こそあれ「誰もが持ち合わせているものだ」ということです。
そしてこの誰もが持ち合わせている特性というのは、その人にとっては「欠点」になると同時に「長所」にもなるものだと言えます。
「いつもちょこまかしていて失敗も多いけど、憎めなくて放っておけないんだよね」「気分屋で怒ると手が付けられないけど、何かに没頭するとそれを極めるまでやってしまうんだよね」「時間にルーズだけど、人懐っこくておしゃべりで一緒にいると楽しいんだよね」「飽きっぽいけど、次々と色々なことに挑戦するからとてもエネルギッシュなんだよね」などといった具合にです。
つまり、その人が持つ「発達障害の気質」こそが、その人の性格を彩るものにもなり、その人の「個性」を際立たせる「源」であると同時に「魅力」にもなっていると言えるのです。
そのため、必ずしも「発達障害の気質」を強く持つことが即問題であるとは言い切れません。
これまで、私は「発達障害」と表現せずにあえて「発達障害の気質」と表現してきたのは、このような理由があるからなのです。
また、当院では「発達障害の気質」が認められるような患者さんの場合、診断名として「ASD(自閉スペクトラム症)type」「ADHD(注意欠陥多動性障害)type」「ASD+ADHDtype」「ADHD+ASDtype」といった表現を使うことが多くなっています。
これも、「発達障害の気質」は誰もが多少なりとも持ち合わせている特性であるということに加え、その気質が強いことが必ずしも何かしらの問題を引き起こすものではないため「障害」だとは言い切れないこと、一応発達障害の特性を測るテストバッテリーはあるけれども、そのテストの結果によってすぐに「診断」されるようなものではなく、過去の成育歴やその時点で社会生活や日常生活に支障が出るほどの困った症状が出ているかどうかなどについて、総合的に勘案して判断されるべきものだということ、そのため「発達障害」であるかどうかの境目は必ずしも明らかにはなっていないといった理由からであり、それであえて「○○type」と表記するようにしているのです。
「発達障害」や「認知症」の診断は本人の状態だけに依拠してなされるわけではない
「認知症」の診断基準にはICD-10やDSM-Ⅳ-TRなどがありますが、基本的にはいったん獲得した以前の機能レベルから著しく低下していることに加え、「記憶障害のみを呈する例や記銘力や他の認知機能低下を呈している例であっても社会生活や日常生活に支障がない症例は認知症と診断しない」とされています。
つまり「社会生活や日常生活に支障がない」場合には「認知症」とは診断されないのです。
これはASDとADHDについても同様です。
DSM-5におけるASDの診断基準では「症状によって社会や職業またはその他の重要な分野で臨床的に重大な機能障害が起こっていること」、ADHDの診断基準では「症状が社会・学業・職業機能を損ねている明らかな証拠があること」が要件とされているからです。
「認知症」も「発達障害」も社会活動や日常生活に何らかの支障があってはじめて「診断」されるのです。
ちなみに当院を受診される認知症患者さんの中には、認知症の病状がかなり進行しているのにも関わらず、はじめて受診されたという人が少なくありません。
脳血管障害や急性発症した疾患の影響、飲み始めたばかりの薬の副作用などで症状が急激に出現したのでなければ、認知症の病状が短期間に進行することはまずないと言えるため、認知症の病状がかなり進行している場合には、少なくとも数年以上前から発症していたものと考えられます。
そうすると、受診される数年前には、おそらく何かしらの認知症の症状や徴候が出ていたはずなのに、家族はなかなか本人を受診させてこなかったりするのです。
臨床的には、「認知症」を疑って患者さん本人が自ら受診されてくることはほとんどなく、同居している家族や周りにいる人が連れて来られることがほとんどなので、身寄りの家族がいなかったり、独居の場合には受診が遅れるのは分かります。
しかし、家族と同居している人の場合でも「何でこんなに進行するまで受診させなかったんだろう」と思わざるを得ないようなケースが実際に少なくないのです。
では、どうして家族はそこまで病状が進行するまで受診させなかったのでしょうか。
確かに家族が患者さんと同居している場合には、本人と毎日のように顔を合わせていたりすると、少しずつ進行していく症状の変化にはどうしても気付きにくくなるため、それで受診が遅れることはあります。
また、家族は病院に連れていきたくても、本人がどうしても嫌がってしまい、それで受診が遅れることもあるでしょう。
しかし、受診が遅れる要因として、もうひとつ挙げられるものがあります。
それは、家族は何となく認知症の症状があることには気付いていたけれど、それはあくまで年相応のもので大したものではないと捉えており、実際に家族もそれほど困っていなかったから、というものです。
たとえ何らかの認知症症状が出ていたとしても、家族にとっては生活に困るような差し迫った状態にならない限り、わざわざ受診させるようなことはしない、という傾向は確かにあります。
しかし、もともと家族関係に問題があり、半ば本人のことを放置していたような場合は別ですが、とても仲が良く、愛情深いような家族であっても、本人の認知症がかなり進行していて、実際には様々な症状が出ていたはずなのに、それを家族が受診を急ぐほどのものとは感じずに、しかもそれほど困ることもなかったので受診するのが遅れたというケースがあるのです。
そのようなケースでは、本人に認知症の症状があったとしても、それが当たり前のこととして捉えられていたり、それらの症状が目立たなくなるように家族が何気なくフォローしていたりして、いわゆる「家族力」が強かったりするのですが、そうであればあるほど受診が遅れがちになるということが実際にあるのです。
「家族力」が強ければ強いほど「じいちゃんまたトボケたこと言ってるよ!あっはっは」「ばあちゃんボケちゃったんじゃないの?あっはっは」などと笑い話で済んでしまうようなことが、きっと増えていくのだと思います。
これは本人にとっては、ある意味とても幸せなことかもしれません。
しかし、認知症疾患の進行を遅らせたり、色々な症状が強くなる前にしっかりそれらを治療して、その後もできるだけ長く症状をコントロールしていくには、専門医への受診は早ければ早いほど有利になるので、そういった意味では喜んでばかりもいられません。
いずれにせよ、社会活動や日常生活に何らかの支障があってはじめて「認知症」と診断できる、といった診断基準に厳密に則れば、どんなに本人の症状が進行していたとしても、生活していくうえでは大きな問題になっていなかったり、家族など周りにいる人たちがまったく困っていないのであれば、「認知症」とは診断できないことになります。
つまり、「認知症」の診断は、本人の病状ばかりだけでなく、出現している症状によって果たして生活に支障が出ているのか、家族は実際に困っているのか、といったことからも判断されることになるため、出現している症状について家族が許容できているのか、あるいはうまく対応できているのか、といった点にも大きく左右されるのです。
さらにいえば、「人間」というのは、まさしく人と人の間で生きているのであり、人との交流や人間関係の中でこそ、その人らしさや能力を発揮できたり、評価されたりします。
そうであるならば、その人の精神機能というのは、社会の中でこそ評価されることになるため、「認知症」という精神疾患も社会の中でこそ問題になったり、顕在化するものなのでしょう。
つまり、まったく同じ病状であっても、家族などの周りにいる人たちや社会・文化の状態によっては「認知症」と診断できるかどうかも変わってしまうということであり、「認知症」というのはそれだけ周りの人たち次第で診断が決まってしまうような病態なのです。
そしてこれは「発達障害」についてもまったく同じことが言えるのです。
次回に続きます。
最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。
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